5.パネンカ先生と日本

チェスキークルムロフリハーサル
パネンカ先生も数々の名演を残した芸術家の家ルドルフィヌム(チェコフィル本拠地)

 パネンカ先生の向学心はお亡くなりになる直前まで衰えることなく、特に語学学習はずっと続けられていました。ドイツ語、フランス語、ロシア語、英語の他にも、日本が大好きで日本語会話、漢字の読み書きなどかなりのレヴェルで習得なさっていました。先生は、小さなカードに単語など覚えることがらを書いて、常にそれを持ち歩き、どこででも少しの時間を見つけては、常に何かを覚えていたそうです。

 1996年の霧島国際音楽祭の講習会を前にして、パネンカ先生は真剣な顔で私にお願いがあるとおっしゃいました。

「さちこ、私がレッスンのときによく使っているチェコ語の単語を書き出して日本語の訳をつけてほしい。毎回レッスンのときにレポート用紙1枚に10個書いて、僕に課題としてわたして欲しい。僕はそれを覚えて、今回の日本での講習会では通訳無しでレッスンするつもりだ。」

 この課題のほかに、私は先生に日独伊仏の音楽用語辞典をプレゼントして、それらを使いながら、通訳無しで日本人生徒たちにレッスンができたそうで、とても満足していらっしゃいました。

 

 先生は日本食が大好きでした。霧島国際音楽祭の講習会では、なんと、毎日朝食に納豆を食べていらっしゃいました。プラハの健康食料品店で私が偶然納豆を見つけたと先生に話したところ

「プラハに納豆があるのか!さちこ、食べたいので買ってきてくれないか?」とおっしゃって、次のレッスンのときに、食べ方を書いた紙としょうゆを添えてもっていきました。

 奥様によると、先生はチェコ料理よりも日本料理を好まれたそうです。先生はもともと、いろいろな料理を少しずつ食べるのを好んだようで、日本の料理は先生にぴったりだったのだそうです。

 奥様は、料理するときになるべく素材が重複しないように、(たとえばスープにじゃがいもが入っている場合は、メイン料理にじゃがいもを使わないように)心掛けていたそうです。

 先生が来日なさっていたのは、いつも日本が最も暑い時期である7月後半から8月半ばにかけてでした。先生は湿気の多い日本の夏をお嫌いではなかったそうです。

 先生の御自宅には、日本コーナーがあります。大半が日本のファンや友人、生徒からのプレゼントですが、博多人形、こけし、扇子、和紙、折り鶴など日本的なものがたくさん飾られています。 

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