11.パネンカ先生の病気

 パネンカ先生の人生で最も辛かった時期は、闘病なさっていたときでした。

 スークトリオで来日し、日本公演が終わって帰途についたとき、右手が腫れて痛み、帰国後さらにひどくなり、とうとう右手が動かなくなってしまいました。

 急いで原因を調べましたが様々な医療機関で検査しても、長い間原因が分からず、症状はひどくなる一方でした。偶然、先生の友人であるイギリス人医師と話をしていたところ、ボレリオーザかも知れないということで、早速検査したところ、ボレリオーザに感染して神経をおかされているということが分かったのです。

 ボレリオーザとは、チェコ国内やその周辺国の草むらや茂みなどにいる木ダニが伝染性の病気を媒介し、木ダニに噛まれた後消毒しなかったりそれに気付かなかったりして、血液中に伝染性の病原菌が侵入、神経をおかす、という恐い病気です。

 先生の場合、ピアニストという職業なので右手を酷使していました。そのせいもあって不幸にも右腕に発症してしまいました。

 原因が分かってから、長期にわたって抗生物質を点滴で投与、長年苦しんだ痛みと腫れが嘘のように引いていったそうです。先生は、ボレリオーザが原因で演奏活動を中断せざるを得なかったときのことを、自分からは話したがりませんでした。

 だれかが先生に病気について質問すると、先生はとても悲しそうな顔をしてうつむき、黙ってしまいます。私は、病気の詳細を奥様から聞きました。

 巷では、こういった事情を知る由もありませんから、パネンカ先生は腱鞘炎で演奏活動を断念したかのようにいわれていましたが、それは事実と反しています。

 先生のことをだれもが「チェコ最大のピアノの巨匠」と認めていた脂の乗り切っていた全盛時代に、1匹の木ダニで演奏活動を断念しなければならなかったのです。

 天は時折、あまりに過酷な運命を与えます。発病する前、パネンカ先生は新しいレコード「ベートーヴェンソナタ全集」録音の契約書にサインをしていました。病原菌をもった木ダニが先生を噛みさえしなければ、今頃、世界のピアニスト共通の大偉業「ベートーヴェンソナタ全曲CD」が名盤として世に残っていたことでしょう。

 

ヤン・パネンカ
オーケストラの指揮をしているパネンカ先生の写真

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