さっちゃんの音楽話

ここではオフィシャルなプロフィールとは別の、裏プロフィール!?をご紹介します。

 

「さちこもピアノ習う?」「・・・うん」

母娘のこのような会話から私のピアノ人生が始まりました。5歳半のことです。母は私が趣味でピアノを弾けるようになるといいなと思っていたそうですが、ピアニストになるなんて思いもしなかったそうです。近所のヤマハ教室に通い始め、石井先生に指導を受けました。教室では聴音が一番好きで、家では輪ゴムを指にかけてビンビン鳴らし音当てごっこをしてたそうです。

 

小学校2年生のときにヤマハをやめて、歩いて15分くらいかけて高橋先生のところに通うことになりました。先生の家の前の坂がとても急だったことを覚えています。小学校4年生から毎年文化連盟主催のコンクールに出場、予選は通過するのになかなか本選で入賞できなかったです。小学5年で中古のグランドピアノを買ってもらい、グランドピアノのおかげなのか、6年生のコンクールで初入賞しました。よく先生宅には日曜日にコンクール出場者だけ集まっておさらい会をしていたのですが、自分はそのおさらい会にやっとこさ参加できているだけで、他の人たちがとてもうまくていつも打ちのめされてました。 カトリック系の私立小学校に通ってましたが、当時はぼーーとした性格でしたし、学校の成績はかなり悪いほうで、両親はとても心配したと思います。

 

中学に入ってからは、ブラスバンド部に所属してフルートを吹き、みんなで一斉に音を出す楽しみを知りました。とにかくひたすら楽しかったです。でも、ピアノとの両立ができないと両親に反対され、泣く泣くブラスバンド部を退部しました。中学3年のときにPTNAコンクールに出場して大阪本選に進み、かすかな自信が芽生えてきたのを覚えています。英語の先生であった母に英語を教えてもらって、勉強が面白くなり、学校の成績はぐんと良くなりました。

 

高校生になってからは、英語もしくは音楽の大学に進みたいと考えるようになり、地元で音大受験指導をなさっていた藤川先生のところに習いに行き、そこで聴音も一緒に始めました。一方で高校になってから英語の授業がReaderメインとなったため全く面白くなく、他の教科の成績も低下の一途をたどり、結局音楽の道しか残されていない状態になってしまったのです。他に選択肢がなく音楽大学受験を決意。藤川先生の「あなたは国立(くにたち)を受験しなさい」(その根拠はわからないまま)という一言で国立音楽大学受験が決まって受験勉強を始めました。

 

高校3年生の秋から月に何度か東京にも通うようにと先生に勧められ、2月の受験までそのようなことが続きました。東京にレッスンに行く日は、夜行電車で土曜の深夜に出発、早朝東京に着き、ピアノ、声楽、楽典聴音、それぞれの先生のところに3軒はしごして最終の新幹線で広島に帰るという強行レッスンデー。若さゆえにできたことですが、両親の経済的な負担やいかに・・と今となっては感謝あるのみです。

高校生時代は「期待される青少年コンサート」「明日を聞く音楽会」などのオーディションを受験し、演奏会やコンクールなどで弾くことがとても楽しい時期でした。怖いもの知らずの無謀な時期です・・

 

高校生のときはクラシックを聴くのが超退屈に思え、フュージョンやフォークソングをよく聞いたものです。ギターリスト高中正義の虹伝説を耳コピーして楽譜を起こしたり、シャカタクやオフコースのコピーバンドに入ってキーボードを演奏したり、家でゴミ箱をひっくり返してドラムセットにみたてて練習するのにはまってました。もしかしたらこうしたことが室内楽奏者としてのアンサンブルの原点なのかも!?

 

大学受験では国立音大と桐朋学園短期大学に合格して国立音大進学を決心、4年間の東京生活がスタートしました。大学で師事した中屋先生は、「あなた、国立音大によく受かったわね」といいながらも、指使いやペダルなど基本的な演奏テクニックから辛抱強く教えてくれました。当初私は東京での生活にちっとも馴染めませんでした。初めて親から離れて勝手気ままなアパート暮らし、栄養の偏った食生活・・・大学にいけばピアノ科には1学年150人在籍していて大学の中にピアノ弾きが600人もいるという現実、自分がピアノを弾く意味を完全に見失い、最初の2年くらいは自分が何をしたらいいのかさっぱりわからない毎日をすごしました。

 

そんな私にも大学の3年のときに転機が訪れました。中屋先生の温かいご指導、相原末治先生の教科教育法の授業、そして当時東洋ーといわれていた国立音大自慢の図書館が私を救ってくれたのです。教科教育法の授業で大学の講義が好きになり、教師という職業にとても興味を持つようになりました。また、暇さえあれば図書館にいりびたりLPやCDをあさるように聴いて名演奏に触れ、だんだん自分がピアノを弾く意味を見失いさまよっていたことも忘れて、興味が沸くのに任せて学業に専念するようになりました。

 

大学3年生の実技試験で、阿部隆史先生のアラベスクが試験曲になり、楽曲解説の講座が催されたときのことです。生まれて初めて、作曲家ご本人の話をきくことができてとても大きな衝撃を受け、日本作品の演奏に目覚めました。のちに私がチェコ放送で日本人作曲家によるピアノ作品録音シリーズを収録したのも、このことと大いに関連しています。3年生の実技試験の成績上位者がノミネートされるコンサートに出演、長い低迷期を経て、「自分がピアノを弾く意味なんてやっぱりわからないけど、ピアノの分野でがんばりたい」と思うようになりました。学外ではイェルク・デームス先生が審査員としていらっしゃったザ・ベスト広島ピアノコンサートのオーディションに合格、ピアノがうまくなりたいと一生懸命に取り組みました。

 

国立音大卒業後すぐに実家に帰り、広島加計学園に就職、音楽の授業とブラスバンド指導を担当、その学校で7年間勤めました。在職中に教育学の勉強もしたいと考えるようになり、岡山大学大学院に進学したのですが、1年次在学中にチェコのPražák弦楽四重奏団と初共演して一気にチェコ留学を志すようになり広島加計学園を退職し、さらに岡山大学大学院を休学してチェコに渡ったのです・・・続きはチェコ回想録