12.パネンカ先生との別れ

1999年7月、パネンカ先生がお亡くなりになったとき、私は広島の実家にいました。先生の訃報はプラハにいる知人から電話で連絡を受けました。当時、私は演奏活動の拠点をプラハに移すべく、10日後に控えていた引っ越しの準備をしていたところでした。
 7月末にはプラハにわたり、プラハ・サマーアカデミー講習会で、パネンカ先生のクラスの通訳の仕事をすることになっていました。先生は、「さちこがまたプラハに戻ってくると、こうした仕事を一緒にできるなあ、楽しみだよ。」とおっしゃっていたのに・・・・
 もちろん私も、先生の元で通訳の仕事をするのを心から楽しみにしていました。その日は、先生のCDをステレオで聴きながら、先生と出会ってからの4年間を思い出し、一晩中泣いて夜を明かしました。
 パネンカ先生と最後の言葉をかわしたのは亡くなられる2ヶ月半前でした。私はチェコとスロヴァキアでコンサートやレコーディングがあってプラハに滞在し、その間に何度かレッスンを受けることができました。
 先生は、当時すでに体調が優れない日もあり、後日聞いた話しなのですが、そのときすでに体中にかなりの痛みがあったそうです。
 先生のレッスンは、回数を重ねる毎に厳しくなっていました。
 私は、ヤナーチェクの作品「霧の中で」をスロヴァキアでのリサイタルで演奏することになっていて、その前にレッスンを受けましたが、先生は4楽章の冒頭部分に相当の執着があり、全く先に進まなかったのを覚えています。
 パネンカ先生は「さちこ、よく聞きなさい。ヤナーチェク作品ほど、演奏家によって解釈が異なる作品はない。祐子が目指すべきヤナーチェクは、パーレニーチェク(チェコのピアニスト)でもなくパネンカでもない、誰のコピーでもない、祐子のヤナーチェクなのだ。」とおっしゃいました。
 その時、私は「パネンカ先生のヤナーチェクほどになれれば本望なのに、日本人の私のヤナーチェク?」と、パネンカ先生のおっしゃっている真意をあまり理解できていませんでした。
 当時の私は、チェコらしさやヤナーチェクらしさを「学ぶ」ことに終止していたと思いますが、今は先生のおっしゃられた言葉の真意がとても良く分かります。この言葉は私にとって先生の遺言で、ピアニストとしての私の活動そのものを支えてくれているものです。
 先生の病状について知っていたのは、家族でも奥様だけでした。「病気だというと、みなが同情したりしてふつうの生活ができなくなる。」という理由から、奥様はパネンカ先生から決して口外しないように固く言われていたそうです。その意志はとても固かったそうで、息子さんたち御家族に先生の病状が告げられたのは、お亡くなりになる2ヶ月ぐらい前だったそうです。


私はパネンカ先生がお亡くなりになってから、「先生がもういらっしゃらない」ということを受け入れるまで、とても長い時間がかかり辛かったです。
 プラハに渡ってからすぐ、先生の奥様とお目にかかる機会が何度かあり、顔を合わすたびに先生を思い出して一緒に泣きました。奥様は1ヶ月程すると「泣いて暮らすのを主人は望んでいないと思うから」と前向きに過ごされ、私は、ある日『相談があるので』と奥様から呼ばれました。
「さちこ、今日はお願いがあるの。主人は生前、孫のヨセフィンカと定期的に連弾をしていたの。彼女はピアニストとしての教育は受けていないけれど、いい感性をもっていて、ピアノを続けて欲しいから主人が連弾の相手をしていたのよ。主人が亡くなったために、ヨセフィンカがピアノを弾かなくなってしまうのはとても残念なの。主人の代わりに祐子が連弾の相手をしてくれない?そうすれば、また家の中でピアノの音が聞こえるし、ずっとうちではピアノが鳴っていたから、これからも私は家でピアノの音を聞いていたいわ。」と奥様はおっしゃいました。
 こうして私は毎週日曜日か土曜日にヨセフィンカと連弾をすることになりました。奥様は毎回ヨセフィンカと私のために、御馳走を用意していて下さいました。ヨセフィンカと私の連弾は長く続き、ファミリーサロンコンサートを重ねてレパートリーを広げ、2002年にはついにパネンカ先生の生誕80年記念コンサートで連弾ビュー、チェコラジオで2曲レコーディングをするまでになったのです。
 このようにして、先生が亡くなった後、先生のご一家と親しくさせていただくようになっていきました。