10.パネンカ先生とベートーヴェン

パネンカ先生はいつも「ベートーヴェン作品の演奏を聴けば、その人のもっているもの全てが把握できる」とおっしゃっていました。先生のベートーヴェンは、知的で高貴、デリケートかつ壮大でした。
 一般的にベートーヴェンは荒々しいイメージが定着しているようですが、本などで読むと、その人柄は、とても哲学的で高貴だったようです。まさにパネンカ先生は御自分と重ね合わせられていたのではないでしょうか。
 先生は、若い頃、教職を目指して師範学校に入学し、その必須単位としてコンセルヴァトワール・ピアノ科教授のフランチシェック・マキシアンにピアノのレッスンを受けました。そこで、学生だったパネンカ先生はずば抜けた才能をマキシアン教授に見い出されピアニストになったのです。
 パネンカ先生はマキシアン教授と出会わずにピアニストになっていなければ、大学ではきっと哲学を専攻していただろうと、奥様からうかがったことがあります。
 生徒がベートーヴェン作品をひくとき、パネンカ先生のレッスンはとてもマニアックで、なかなか「よし」といってもらえませんでした。先生のベートーヴェンには宇宙の広がりがあり、私達門下生は決まって「ベートーヴェンコンプレックス」を背負ってしまいます。
 よく先生は「ベートーヴェンは数学的なところが沢山あります」とおっしゃっていました。例えば、先生のベートーヴェンのCDを聴くと、16分音符から三連音符に移るときなど、まるでミクロ単位の定規で計測したかのようなタイミングで演奏しています。
 リズムやテンポがとても正確であると、カンタービレや特別な和声変化の部分でほんの少し「ため」をもたせたりする部分が来たとき、コントラストがあり効果が大きく、うっとりしてしまいます。また、無意識のうちに発生するリズムやテンポのちょっとした狂いが、後続部分では影響が大きくなり、帳じりがあわなくなくなってしまうということもあります。そういう意味でも「ベートーヴェンは数学的」という表現を使われたのだと思います。
 それから、「速めるよりも遅らせるほうがいい」は先生のお気に入りの言葉で、ドラマティックな場面で前へ前へと迫っていくよりも、逆にテンポをほんの少し下げて豊かに楽器をならすことを心掛けたほうが心に迫りくる、ともおっしゃっていました。
 テンポを速めると、その瞬間に聴き手は奏者と共に心で歌うことを止めてしまう。逆に遅らせた場合は、聴き手の心は常に奏者と共にあるというのです。
 レッスンの時に、先生はよく「自分ならこう弾く」という見本を見せて下さいました。そのピアニッシモの美しいこと!瞬時に心にしみ込むのです。わたしは、先生のピアニッシモを聞きながらその場で何度も涙しました。