1.チェコ留学のきっかけ

~プラジャーク弦楽四重奏団との出逢い

2007年福山リーデンローズ小ホール
2007年福山リーデンローズ小ホール
私をチェコへと導いたのはプラジャーク弦楽四重奏団です。彼らとの出会いは、私の人生の流れを大きく変える出来事となりました。

 1994年10月16日、広島県民文化センターふくやまでのコンサートで、ドヴォジャークのピアノ五重奏曲をプラジャークSQと初共演しました。この日を境に、私はチェコへと引き寄せられていきました。
 プラジャークのメンバーと初めて会ったのは、そのコンサートの2日前に行われた合わせ練習のときです。その日彼らは、まる1日かけて各地の3人の共演ピアニストとドヴォジャークのピアノ5重奏曲をあわせることになっていました。3人目のピアニストとして私が来た時、すでにメンバーはヘトヘトに疲れ切っていました。わたしも、ヨーロッパのカルテットと生まれて初めて共演するとあって、とても緊張し、大好物の讃岐うどんものどに通らない程でした。
 
 いざ合わせ練習が始まると、雰囲気は一変しました。ちょうどピアノ譜の2ページ目に差し掛かった時、言葉ではあらわしにくいなにか尋常でない感覚とエネルギーを感じました。(後日聞いてみると、私だけの感覚ではなく、メンバー全員が私と同じようなタイミングで同じことを感じていました。)それは、その場にいた5人それぞれの持ち味が発揮されていただけでなく、感覚を共有できる人との組み合わせから生まれる形容しがたい大きな力が作用した瞬間だったのです。曲が進むうちメンバーもそれまでの疲れが吹き飛び、目をあわせてニコニコしていました。
 
 彼らが歌い上げる大きなフレーズ、楽譜に書かれていること全てを120%表現して繰り広げられるコントラスト、お腹に響くハーモニー、アンサンブルのプロとして培われた究極のアンサンブルのセンス、グイグイと人を引き込むエネルギー、ビロードのように滑らかでうっとりする音質・・・一緒に演奏しながら、「音楽を演奏するってこういうことなんだ!」と感動していました。生まれて初めて、それもこんな間近で正真正銘の音楽家を目にしたのです。



 彼らの音楽にグイグイ引っ張られたり守られたりしながら、私もそれに反応して演奏ができました。4楽章の演奏を終えたら、皆顔が紅潮して誰もが手ごたえを感じていました。第1ヴァイオリンのレメシュさんが代表して、「今まで世界各地でこのクインテットを演奏してきたけれど、外国人が演奏するドヴォジャークには、どうしてもチェコスピリットやドヴォジャークらしさがかけている。さちこのは違う。どうして日本人のさちこがそこまでチェコのドヴォジャークを理解できるのか、僕にはそれが理解できない。」と興奮しながらほめてくれました。
 
 今まで、ピアノの演奏でここまで褒められたことがなかったので、嬉しさと驚きでいっぱいでした。わたしは「ドヴォジャークの表現の癖やチェコ語から来るニュアンスを理解するために、ドヴォジャークのオペラを研究分析したのが良かったのかなあ」とこたえましたが、それにしても解らないと首をひねりっぱなしでした。
 そして、コンサート本番は練習のとき以上に良いアンサンブルができました。コンサートの後、「君の弾き方はチェコのピアノの巨匠ヤン・パネンカに似ている。僕達も一緒に何度も弾いたけど、素晴らしいピアニストなんだ。知っているか?」と聞かれ、「CDでしかしらないけれど、素晴らしいピアニストですね。大好きで、良くCDを聞いています」とこたえました。このような話をしたときは、その1年後にパネンカ先生に師事してプラハで勉強することになるとは夢にも思っていませんでした。
 
 プラジャークはその年の日本全国公演の最後に、北九州国際音楽祭(当時はセッポ・キマネン氏と新井淑子氏の主催で独創的で魅力的な音楽祭を繰り広げていた)に招かれていて、わたしは「プラジャークのオッカケ」として北九州に演奏を聞きに行きました。驚いたことに、プラジャークはその北九州国際音楽祭で飛び入りで私と五重奏を演奏できるように、主催者と交渉してくれていました。残念ながら、直前に予定のプログラムを変更できないという理由で実現できませんでしたが、彼らの気持ちがとても嬉しかったです。
 
 プラジャーク弦楽四重奏団は北九州国際音楽祭でチェコの弦楽四重奏曲を数曲披露しました。観客はその熱のこもった演奏に釘付けになりました。特にスメタナ作曲の「我が生涯より」の演奏は感動的で、そのときに私は彼らの姿に「演奏家としての理想像」を見ました。彼らの頭上で一旦音が球になってまとまり、放射線を描いて客席に響きとなって放出される・・・・響きをこんなふうに目で認識したのは初めてでした。
 プログラムには、プラジャークの演奏に対する信念が記されていました。それは、「演奏家とは、作曲家の情感を楽譜から最大限汲み取り、舞台でそれを聴衆に伝える媒体である」というものでした。
 このコンサートでの大感動が、「プラジャークを育てたチェコ、プラジャークが生活しているプラハで、ピアニストになるための勉強をしたい」という思いに変わるのに大して時間はかかりませんでした。
 
 北九州から広島に戻ってから、留学について真剣に考えはじめました。当時私には、3つの活動がありました。
 一つめは教師として、広島加計学園という中高一貫教育の私立学校で音楽講師を勤め、ブラスバンド部の顧問としても指導・指揮に当たっていました。二つめに大学院生、教育学の勉強をするために岡山大学大学院教育学研究科音楽専攻に通学していていました。3つめはピアニストとして、演奏会に出演していました。当時は地方にいて演奏の機会が数多くなく、教育と演奏半分ずつ活動できればいいと考え、「ピアニストである」と自覚したことはありませんでした。それが、プラジャークSQとで出逢ってから、28才にして初めて、「ピアニストになりたい」と明確な希望をもったのです。


 調べていくと、私の尊敬するパネンカ先生が、プラハ芸術アカデミーで72才にしていまだ現役で教えていらっしゃるということ、さらに2年分の学費と生活費は自分の貯金でなんとかたりそうだと分かり、「勤めを退職、大学院を休学、1995年9月プラハ留学」を実現すべく、本格的に行動を開始しました。
 まず、チェコ語の語学テープ、教材をあつめて、猛烈な勢いで文法学習を始めました。後に、岡山にチェコ人がいることを突き止め、発音などのアドヴァイスを受けました。やたら複雑で何回あなチェコ語文法で挫折しそうになると、「いつの日か必ずプラジャークとチェコ語で話すんだ!」と自分に言い聞かせて乗り越えました。熱意と必要性こそが、語学習得のカギを握っていると思います。
 一方、パネンカ先生とのコンタクトを試みていましたが、行き違いがあって一向に果たせないままでした。今年の留学は無理かも知れない、1年先にのばさなければならないかと思いはじめた頃、1995年7月京都で、ついに先生ご本人と直接話をする機会がめぐってきたのです。




プラハ城
プラハ城